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学長 北澤 晃の「つくり、つくりかえ、つくる」

▼ブログ100で取り上げた浜田寿美男の著書『私と他者と語りの世界 精神の生態学に向けて』のなかに、次のように述べられている部分があります。

「子どもたちのなかにことばが根づいて、物語が語られていくその発達の流れを考えてみても、最初は、まず原初的なかたちで『私』が生身でその場に臨場して体験する一人称(私)、二人称(あなた)、三人称(彼・彼女)の世界があり、これを語る『私の世界』が積み上げられていきます。そして、そこからやがて『私』が臨場していない、しかし『私』の体験世界と同時並行的に誰かがどこかで体験しているはずの世界を思い描くようになって、そこに『世界の物語』が立ち上げられていきます。私たちはみな、この二つのかたちの物語を織り合わせて、自身の生活世界を形成しているのです。『私の物語』と『世界の物語』はただ並列しているものではなく、『私の物語』にはじまって、やがてそのうえに『世界の物語』が登場してくれば、『私の物語』のなかにこの『世界の物語』を組み込みますし、また逆に『世界の物語』のひとコマとして『私の世界』を組み込むことにもなります。」

 ※( )内補筆

 

▼私は東日本大震災の被災地にボランティアに行ったときのことを思い起こし、ブログ84で書いた私の「無力感」とは、社会全体を覆い尽くした東日本大震災という『世界の物語』に全く絡むこともなく宙づりになっている『私の物語』への無力感であったのだと思います。また、ともかく被災地に足を運んでみた際のわずかばかりの「自己効力感」とは、同時進行している二つの物語が辛うじて絡んだという安心感だったのだろうと思います。

 

▼『私の物語』に『世界の物語』が、このように組み合わされ絡み合って、私たちの生活世界を成り立たせているということを、私が社会的な『私』であろうと思うのであれば意識することが大事なのだと考えます。 また『世界の物語』と言っても、その生活世界をどうとらえるかというフレームの持ち方によって、さまざまな『世界の物語』が私たちの前にひらかれていきます。世の中で起こる個々の出来事は、それぞれどのようなフレームのなかに置かれるかで意味が変わります。場合によっては、その出来事を見るフレームを持ち合わせていなければ、私にとってその出来事は存在しないということになります。そう考えると、私の意識がどのような『世界の物語』をつかまえるかということは、『物語力』を発揮する上で大問題であるはずなのです。

 

▼東日本大震災からもうすぐ1年が経過します。被災地の窮状はさほど改善されていないにも関わらず、被災そのものを『私の物語』として生きることを余儀なくされている人々以外、『世界の物語』のフレームから被災の事実が少しつつ忘れ去られていることは、日々のテレビニュースを見ても明らかです。そのことに社会的な歯止めをかけるためには、少なくともすべての日本人に日本人としての『物語力』が問われると私は感じています。

 

浜田寿美男 『私と他者と語りの世界』 ミネルヴァ書房 2009

 

▼今、ブログ100という新たなスタートラインに立っています。ブログ99で紹介した『いきものがかり』の曲には、「終りという始まり 始まりという名の終わり」という歌詞の一文がありますが、まさに今ここがその場所だと思っています。新たなスタートラインに立ったと言いながら、これまで100という一つのゴールを意識してきた私は、終わったという気持ちも抱いています。

 

▼今、これまで私が書いてきたことを振り返ってみると、同じようなことを繰り返し考えているなあと思うところがあります。書くということは、その文脈の中の今を生きているのです。したがって、その今が連続することで、私が『私』を生きるという自己同一性を発揮することができるのだと言えます。私は中学生の時に担任の先生がホームルームで話された「良い言動は砂に刻まれるが、悪い言動は石に刻まれる。だから、良いことは繰り返さなければ消えていくし、悪いことは心から消えずに一生背負うことになる」という言葉をよく覚えています。自分にとって大事な言葉は繰り返す必要があると思うと同時に、その繰り返しは単なる同じことの繰り返しではなく、意味そのものをずらしていく。この"ずれ"が未来をひらく力ではないかと思うようになりました。

このことに関係することとして、浜田寿美男は次のように述べています。

 

▼「人は身体をもってこの世界を生きることしかできません。どんなに遠い未来を思い描いても、しょせんは自分がいま身をおいている<ここのいま>を生きる以外にありません。そしてこの身体で<ここのいま>を生きるということは、いつもこの自分の身体に手持ちしている力を使って生きるということです。たしかに明日になればなにか新しい力が身についているかもしれません。しかし、明日身につくかもしれない力で今日を生きるわけにはいかないのです。

人は身体に手持ちしている力でもって<ここのいま>を生きる以外にないし、そうして手持ちの力で生きているなかで次の新しい力が生まれてくる、いやいやそれが生まれてこないことだってある。いずれにしてもそうして生きていくなかで、その<生きるかたち>がさまざまに変化していく、人の生活はそもそもそういうものではないかと思うのです。」

 

▼私は、これまでその時その時に持ち合わせている手持ちの力で「つくりかえ作文」をブログであなたに宛てて書いてきました。そして、その手持ちの力は、本当にわずかずつではあるかも知れませんが変化してきました。そして、その変化のなかで、私は『ナラティヴ・コンピテンス』(物語能力)ということの重要性を更に強く意識するに至っています。『ナラティヴ・コンピテンス』(物語能力)という言葉は、これまで一度も使っていません。これからは、新しいキーワードとなります。そして、これまでをナラティヴの入門編とするならば、これからはナラティヴの応用編となるのかも知れません。

これが、私のブログ100の「終りという始まり」です。

 

浜田寿美男 『私と他者と語りの世界』 ミネルヴァ書房 2009

 

▼ブログ100にあと1歩となり、書き始めてからのことを思い起こしています。100個の点が右往左往しながら、足跡として今ここに連なっています。それは100の物語とも言えるし、今ここに至るささやかな1つの自己物語でもあるとも言えます。

 

▼100には、「たくさんある」という意味があります。ですから、百科事典などは世界のあらゆる事項が説明されているという意味でそう名付けられています。私は100には計り知れない力があると考えています。そして、「書くことによるナラティヴ・アプローチ」の意味、さらには『起承転結』で書くことの意味を身をもって検証し、あなたにもっと自信をもって提案できる「私」になりたいと思ってきました。そして、私は100に手が届くところまで書き続けてきて、自己理解が深まったと言えるか問い返しています。十分わかっていることを「百も承知」と言いますが、私は100回自分と向き合って、「私」について「百も承知」という境地に達することができるでしょうか。

 

▼答えは"NO"です。私が書いてきたことの意味は、自己を知る(自己理解)ということより、その都度の自己をよく生きようとした実感です。私たちは、未来のために今を生きているのではありません。今ここを生きることが未来をひらくという事実、そして、今ここの生き方が違った未来に連なっていくという事実を、私は体験してきました。

 

▼種を蒔かないと花は咲きません。私は書き続けてみて、書くという作業は種を蒔くことに似ているなと感じています。今日、手にした種がどんな花を咲かせるのかは分かりません。でも、こうして書いているとかつて蒔いた種が小さな花を咲かせていることに気付くことができます。そのことに感謝しながら、また新たな種を蒔くという日常の作業が、自分を生きるということであり、ナラティヴ・アプローチの合言葉「つくり、つくりかえ、つくる」ということなのだと思います。

私が今、あなたに伝えようとしている思いを歌い上げている曲があります。再び、『いきものがかり』の曲ですが、ブログ100手前のしおりとします。

 

心の花を咲かせよう 
作詞・作曲 山下穂尊

曲を聴きたいあなた

http://www.youtube.com/watch?v=0lo5E-n3DA4

歌詞を見たいあなた

http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=74079

 

▼これまで、「外に具体的な他者を立てやりとりを重ねることで、対話の回路が内面化し、心に『もう一人の私(内なる他者)』が住み込むことについて、人形での一人二役遊びを例にお話してきました。そうした「もう一人の私(内なる他者)」の経験の総体が「心」というものではないかと思います。

 

▼私は先日、店頭でビー玉が売られているのを見て、懐かしい気持ちになり買ってきました。あなたも幾つかのビー玉やおはじきを広げて、当てていく遊びをしたことがあるでしょうか。ビー玉も一人二役遊びです。ビー玉は自分の分身であり、「当てるビー玉」と「当てられるビー玉」という二役になる遊びです。「当てる-当てられる」という関係が成立した瞬間のうれしさは、二人分の喜びだったのかも知れません。

私は、ビー玉に回りの色が映り込んでいるのを見て、かつて臨床美術の講座で取り組んだ「3原色で描いた空」のことを思い出しました。

「そうだ、あの空にビー玉を描こう・・・」

  IMG_0269.JPG

 

▼その臨床美術講座では、赤・青・黄の3原色の絵具を直に白い画用紙に出し、たっぷりと水を含ませた筆でにじませるように塗り広げていくのです。やがて、青が赤に出会い、赤が黄に出会い、さまざまな感じの「いつかの空」が心によみがえってくるのでした。夕暮れに空高く飛んでいた赤とんぼ、縁側で寝転んで見ていた青空に浮かぶ白い雲・・・

空もまた、「もう一人の私(内なる他者)」であり、たくさんの「いつかの空」を身体で感じた物語が心の空間をつくっているのです。

 

▼私たちの心は外にある様々なものでできている。もし、そうなら、心を豊かにするってこと、心を美しくするってこと、あるいは心を逞しくするってことは、外にある様々なものとの付き合い方に関わっているのではないかと思います。

 

(※2月8日の【きときとアート塾】は、「いつかの空とビー玉」を描きます。)                

 

▼クリスマスイブが土曜日、クリスマスが日曜日と家族で過ごすには、多くの人にとってよい巡り合わせの年の瀬のようです。一日中雪が降り続くクリスマスの日曜日、私は愛犬のアッシュとテレビの前でほとんど過ごしました。テレビは年末の特別番組で今年の重大ニュースを扱うので、3.11と呼ばれるようになった東日本大震災による大津波の映像漬けになりました。そして、子どもを失った母親への取材などは、自分の心から『何か』を吸い取っていくように感じられました。

過日、医療関係者が250人ほど集まっている研究会において『未来をひらく自己物語』という演題で講演をしました。私は教育関係者をはじめ、医療や介護等、人と深く関わりをもつ職業に就く人には、「物語能力」というものが不可欠だと考えています。いえ、かけがえのない自分の人生をそれなりにでも生きていくためには、誰にとっても必要な能力だと言えますし、本来誰もが持っている能力なのだと言えます。

 

▼私は講演のなかで、「物語能力」が働く要件として、次の二つに焦点を当てました。

1.つなぐ力

 「点」と「点」をつないで「線」にするということです。その「つないでいく力」が一つ目の視点です。私たちの行為や言葉は、その時、その時は行き当たりばったり打つ「点」の連続のようなものです。しかし、私たちの主体性は「点」と「点」をつないで「線」という文脈にしていく創造性をもっています。私たちは、過去から未来に向けてバラバラな「点」ではなく、曲折しながらも「線」としての文脈の意味を生きているはずなのです。だからこそ、「今、ここ」の物語が未来をひらいていく力をもっていることになるのです。

2.関係性の感覚

 二つ目の視点は自分の外にあるものを自分の内で捉える感覚です。共感能力を基盤としたコミュニケーション力という形で働いているものです。外に具体的な他者を立てやりとりを重ねることで、対話の回路が内面化し、心に「もう一人の私(内なる他者)」が住み込むことについてお話しました。そうした経験の厚みが関係性の感覚を豊かにしていきます。

 

▼講演を終える際に、東日本大震災の大津波で我が子を亡くした親の心には、「もう一人の私」として心に住みこんだ「我が子」が今も生きているということに触れながら、親として私自身この「我が子」の喪失は耐えられないと思いました。それは他の誰とも代替えできない対話の回路を回しながら、心の外に今は亡き「我が子」を求め続けていることなのです。それは求めても得られないという自己喪失の回路を回し続けるという意味でもあるのです。にも関わらず喪失感だけを抱えて私たちは生きていくことはできません。この喪失感をつくりかえていくためには、やはり、自身の「1.つなぐ力」と「2.関係性の感覚」に頼る他ないように思います。

 

▼どのようにしても総括できない一年となりましたが、2012年において、あなたの自己物語に陽が射すように幾重にも心から祈ります。

 

 

▼ブログ95で「もう一人の私」に「私」とは極めて異質な他者(ガネーシャ)を立てることは、私自身の内的な回路が独り言の性質を強めて狭い世界に入り込んでいかないように、あるいは自分自身を追い詰めていかないようにすることにもなると書きました。そのことについて読者から次のような書き込みがありました。

 

その1.「私の『内なる他者』は、本来の私より、ちょっと大人かな?でも、そんなにも自分と異質に感じていません。北澤先生のように、もっと本来の自分とかけ離れた『内なる他者』が立ち上がると、楽しいかも!と思いました^^」

 

その2.「私はどちらかというとガネーシャに近い自分がいます。皆に『毒舌』と言われる自分も悪くない。要らないものを捨てていくうちに、ガネーシャに近づいてきたw ^^」

 

そして、これらの書き込みを読んで、はっとしたのです。ガネーシャは私にとって「異質」どころか、何か身にまとっているものを脱いだときに立ち現れるような気がしたからです。

 

▼そのような思いで、ガネーシャが出てくるブログを読み返してみると、私のブログのなかにガネーシャが出てくるときに、私のブログの文章の主語が時々<ぼく>に変わるのです。ガネーシャとやり取りするのは、私のなかの<ぼく>なんだ。社会性を身にまとった「私」が、ガネーシャとのやりとりを通して、心の水面下のかけがえのない無邪気な<ぼく>を時々立ち上げているのかも知れないと思います。

 

▼永井均は『<子ども>のための哲学』のなかで、次のように書いています。

 

「ぼくは実は、だれでも、どんな人でも、ほんとうは、それぞれのしかたで、水中に沈みがちな一面を持つのではないか、と思えてならないのだ。これはまちがっているかもしれない。水面下のようすを知らされてもまったく興味をもたない人がいることも知っている。でもそれは、それが他人の見た水面下だからなのではないだろうか。もう忘れてしまっただけで、ほんとうは、その人に固有の水面下というものがあったのではないだろうか。いつもは忘れているだけで、ほんとうは、その人に固有の水面下というものがあるのではないだろうか」

 

▼「そっか、ガネーシャは、いつもは忘れている水面下の<ぼく>に話しかけているんだ。それを異質と感じるなんて・・・」

僕は、引きこもりがちになったガネーシャがいる押入れを思い切り開けた。

「ガネーシャ・・・」

ガネーシャは溶け出した顔で、あんみつを食べていた。

「自分も、食べる?」

 

永井均 『<子ども>のための哲学』 講談社現代新書 1996

水野敬也 『夢をかなえるゾウ』 飛鳥新社 2007

▼「ガネーシャはなぜ一週間、私の前に姿を現さなかったのか?」

それは私が一週間、iPhonを手に1回もtwitterができなかったからなのです。私はブログ94で幼少時の私がウルトラマン人形を片手に一人二役遊びをしている状況について、次のように書きました。

「自分自身とウルトラマンを交互に演じながら対話の回路が回るのです。それは、外に具体的な他者(ウルトラマン)を立て、『私』がその他者にもなることで、『もう一人の私』を心に育んでいくことになります。そのことによって、やがて人形がなくても一人で対話の回路を回せるようになるのです。つまり、一人二役の人形遊びによって、心に『もう一人の私(内なる他者)』が住み込みます」

ということは、私は手にガネーシャ人形を握って一人二役遊びに興じているということになるのではないでしょうか。

 

▼「それはちゃうで。ワシは自分が心配でわざわざ立ち寄ってるんや。神様を人形扱いしたらあかんやろ」

 そんなガネーシャの声も聞こえてきますが、私はガネーシャ人形を握るように携帯を持って、ガネーシャと私の一人二役を演じながら、その回路を内面化してきたと言えると感じています。これに関係する論考として、田中ゆかりは著書『「方言コスプレ」の時代』で次のように述べています。

 

▼「『方言コスプレ』がさまざまなところで目につくようになってきた背景として、大きな二つの要因を指摘できそうである。一つはインターネットや携帯メールの普及によって『打ちことば』(※指先で入力する言葉)が日常化し、『打ちことば』の非対面・非同期(※向き合わず時間を共にしない)という特性によって後押しされた『自己装い表現』の一般化が進んだこと、もう一つは、現代が『方言』の『おもちゃ化』の時代を迎えていることである。

 携帯メールやブログや掲示板、SNS(Social Networking Service)などは、費対面・非同期というイディア特性を持つ『打ちことば』によるコミュニケーションである。『自己装い表現』が取り入れやすい。」

 (※)筆者補筆

 

▼ガネーシャの自己装い表現は、本来の私の表現とはかけ離れているので、そのような「もう一人の私(内なる他者)」との自己内対話の世界がひらいたことは、私にとって他者との関係性を柔軟にしていく力となっていると思います。また、「もう一人の私」に「私」とは極めて異質な他者(ガネーシャ)を立てることは、私自身の内的な回路が独り言の性質を強めて狭い世界に入り込んでいかないように、あるいは自分自身を追い詰めていかないようにすることにもなると考えられます。そのような意味で、いろいろな他者性を身に付けることは、力強く生きていくためにも大切ではないかと思います。そして、このガネーシャと私のやりとりの回路は、それをフォローしてくれるネットワーク上の人々によって励まされ補強されながら、私の心に広がってきたということも感じています。

 

田中ゆかり 『「方言コスプレ」の時代  ニセ関西弁から竜馬語まで』 岩波書店 2011

水野敬也 『夢をかなえるゾウ』 飛鳥新社 2007

▼子どもの頃に、キティちゃんやガンダムなどの人形を持って一人二役遊びをしたことが多かれ少なかれあると思います。私の場合はウルトラマンでした。
「ウルトラマン、タスケテ~」
「シュワッチ(アキラくん、だいじょうぶだよ!)」
「ウルトラマン・・・」
自分自身とウルトラマンを交互に演じながら対話の回路が回るのです。それは、外に具体的な他者(ウルトラマン)を立て、「私」がその他者にもなることで、「もう一人の私」を心に育んでいくことになります。そのことによって、やがて人形がなくても一人で対話の回路を回せるようになるのです。つまり、一人二役の人形遊びによって、心に「もう一人の私(内なる他者)」が住み込みます。

 

▼私とガネーシャとの対話の心的構図は基本的に同じです。

「ごめんて」

「何をしたんですか?」

「あのな、『フォロー管理』というアプリで『ガネーシャ』を検索したんや」

「それで?」

「それでな、出てきたたくさんの人々について【一括フォロー】を選択しただけ」

「【一括フォロー】を選択しただけって、それは何人ぐらい??」

「たぶん、50人?100人?500人?1000人?ワシ、有名人やし、神様やから」

これは、ブログ93での私とガネーシャとのやりとりですが、 水野敬也の『夢をかなえるゾウ』を読みながら私の心のなかに生成した「自己内対話」の回路のなかで発話されていると言えます。今のところ、そのように自己理解しているのですが、浜田寿美男は著書『「私」とは何か』のなかで次のようにも述べているので、ちょっとこの先の不安はあります。

 

▼「幻聴なども同じように理解することができる。存在しない他者からの声が聞こえてくる。これは物理的にはありえないことである。しかし、生まれたそのときから育ってきた対話性の回路が、私たちのなかにも同じようにまわっているのだとすれば、幻聴も私たちからそれほど遠い現象ではない。私たちの内部に根を下ろした対話性の回路のうえで、『内なる他者』の声が生々しく投影される。それはたしかに異常に見えるが、この異常の現象も私たちと共通の心の構図の上に成り立っている。」

 

▼やばい、ガネーシャの声がまた聴こえる・・・

「なるほど、自分の考察なかなかイケてるやん。そやけど、twitterのアカウントが凍結された一週間、ワシが押入れから出てこなかった理由を考察するのとちゃうの?自分、そう書いてたやん」

「はあ、そうでした。次のブログで粘り強く考察することにします・・・」

 

浜田寿美男 『「私とは何か  ことばと身体の出会い』 講談社選書メチエ 1999

水野敬也 『夢をかなえるゾウ』 飛鳥新社 2007

 

▼「な、iPhon4Sはええなあ。これは、『信念』と『ビジョン』の人、スティーブ・ジョブス君の魂やで」

ガネーシャにそそのかされて、僕はiPhon4Sを購入した。購入した途端にiPhonはガネーシャの手に渡っている時間が長く、妙に手慣れてきた指さばきがイラっとさせる。

「ほれ、見てみい。8メガピクセルのカメラで撮ったスイーツは、いつ見ても美味しそうや。自分も見る?美味しそうやな・・・」

ガネーシャはiPhon画面を奇麗に拭き取りながら、今にもiPhonを舐めそうな顔をしている。

「iPhonを使いたいんですけど」

「なんや、遠慮せんと使いたいときは使いたいと、はっきり言わなあかんで。しかし、ジョブス君にはもう少し長生きして欲しかったわ。ジョブス君がいない世界は考えられへん。この世界が退屈にならないことを二人でいっしょに祈ろう!」

 

▼こうして、ここ数日ガネーシャの手からiPhonが離れることはめったにない。もう諦めたとき、ガネーシャはなぜかiPhonをテーブルに置き、わざとらしいあくびをして押入れのなかにそわそわと消えていった。そして、その直後に一通のメールが着信した。

「あなたのTwitterアカウントは過剰なフォローにより凍結されました。宣伝目的で多数のユーザーをフォローすることは、他のユーザーを不快にさせることがあり、Twitterの規約に反します。アカウント凍結に抗議したい場合は、異議申し立てページから申請する必要があります」

 

▼僕は読み終える前に、ガネーシャを押入れから引きずり出していた。

「ごめんて」

「何をしたんですか?」

「あのな、『フォロー管理』というアプリで『ガネーシャ』を検索したんや」

「それで?」

「それでな、出てきたたくさんの人々について【一括フォロー】を選択しただけ」

「【一括フォロー】を選択しただけって、それは何人ぐらい??」

「たぶん、50人?100人?500人?1000人?ワシ、有名人やし、神様やから」

「どうして【一括フォロー】なんてしたんですか?『宣伝目的で多数のユーザーをフォローすることは、他のユーザーを不快にさせることがあり、Twitterの規約に反します』というメールが来て、僕のアカウントは凍結されちゃいましたよ」

ガネーシャの目には、見る見る涙が溜まり溢れた。

「ごめんな。『ガネーシャ』というワシの名前をつぶやいている人々を救済しようと思ったんや。【一括フォロー】は、ワシ流に言えば【一括救済】やん。しかし、なんで神様の救済をTwitterは凍結するんや」

「神様として全く認知されていないってことですよ」

(「しまった!」と心の中で思ったが遅かった。ガネーシャのぷよぷよ身体が僕の目の前でしぼんでいった。)

 

▼かくして、僕のTwitterアカウントは一週間凍結された。そして、その一週間、ガネーシャは押入れから出てこなかった。どうして出てこなかったかを次のブログで考察することにする。

 

水野敬也 『夢をかなえるゾウ』 飛鳥新社 2007

 

▼先日、第4回きときとアート塾を行いました。30名の方が参加してくださり、アートによって新鮮な気持ちを取り戻す時間をいっしょに過ごすことができました。内容は、『五感のアナログ画(抽象画)』という臨床美術のプログラムです。臨床美術というのは、脳を活性化するプログラムによって実践され、子どもの脳の活発な働きを促し、高齢者の認知症を予防し、閉塞感を感じている人の心を解放するなどの効果があります。臨床美術が大切にしているプロセスを踏まえると、"五感を働かせるアートプログラム"と言えば馴染みやすいかも知れません。

五感とは、目・耳・舌・鼻・皮膚を通して生じる五つの感覚のことです。つまり、五感を働かせるということは、主に非言語的な態勢をつくる右脳を活性化することを意味します。それは、別の視点で捉えれば、「心の深み」と「身体」に関わって働く感覚"身体性"を生かすということを意味します。 

 

▼今回は『五感のアナログ画』のプログラムのなかで、「音を描く」に取り組みました。ギター演奏家の石倉真さんを招いて、ギターの生演奏のなか音を感じて二人一組で描きました。参加者の作品を紹介します。ぐるぐると円環しながら奏でられる音の響きを力強く表現している作品です。

 

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▼このような色や形に置き換わる世界を二人一組でいっしょに見るということには、次のような意味があります。

 

「見るということはただまなざしを注ぐということではなく、人が見て捉えた世界がその人の身体におのずと表現される。そして、その表現された姿が、そばでその様子を見ていた人に伝わる。この回路のなかでは、見ること自体が人と人をつなぐ一つの表現なのである」

(浜田寿美男,『「私」とは何か』,講談社選書メチエ,1999)

 

ギターの演奏をいっしょに聴くという行為もまた同じと言えます。そして、ギターの演奏を聴き、色や形に置き換わっていく世界をいっしょに見るということ自体が、"共に生きること"を表現していると言い切ることは大袈裟なこととは思いません。このプログラムに参加してくれた親子は、五感が関わる意味の世界において深く結びついているのです。

 

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▼これまで書いてきたような意味で、私が子どもたちの活動を記録してきた写真の中で、とりわけ好きな写真を紹介します。7人の子どもたちが材料選びをしています。

 

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子どもたちは、まなざしを交換しながら他者の表現のなかに自己を見出していくのです。それは、"同じ"という感覚であったり"違う"という感覚であったりしますが、そのような場において、私たちは他者とのつながりを生きるという感覚をひらいていくことができます。この写真の子どもたちの向かい合う身体がつくり出す輪のなかには、共に生きられる意味の世界が広がっているのです。

 

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