▼ブログ100で取り上げた浜田寿美男の著書『私と他者と語りの世界 精神の生態学に向けて』のなかに、次のように述べられている部分があります。
「子どもたちのなかにことばが根づいて、物語が語られていくその発達の流れを考えてみても、最初は、まず原初的なかたちで『私』が生身でその場に臨場して体験する一人称(私)、二人称(あなた)、三人称(彼・彼女)の世界があり、これを語る『私の世界』が積み上げられていきます。そして、そこからやがて『私』が臨場していない、しかし『私』の体験世界と同時並行的に誰かがどこかで体験しているはずの世界を思い描くようになって、そこに『世界の物語』が立ち上げられていきます。私たちはみな、この二つのかたちの物語を織り合わせて、自身の生活世界を形成しているのです。『私の物語』と『世界の物語』はただ並列しているものではなく、『私の物語』にはじまって、やがてそのうえに『世界の物語』が登場してくれば、『私の物語』のなかにこの『世界の物語』を組み込みますし、また逆に『世界の物語』のひとコマとして『私の世界』を組み込むことにもなります。」
※( )内補筆
▼私は東日本大震災の被災地にボランティアに行ったときのことを思い起こし、ブログ84で書いた私の「無力感」とは、社会全体を覆い尽くした東日本大震災という『世界の物語』に全く絡むこともなく宙づりになっている『私の物語』への無力感であったのだと思います。また、ともかく被災地に足を運んでみた際のわずかばかりの「自己効力感」とは、同時進行している二つの物語が辛うじて絡んだという安心感だったのだろうと思います。
▼『私の物語』に『世界の物語』が、このように組み合わされ絡み合って、私たちの生活世界を成り立たせているということを、私が社会的な『私』であろうと思うのであれば意識することが大事なのだと考えます。 また『世界の物語』と言っても、その生活世界をどうとらえるかというフレームの持ち方によって、さまざまな『世界の物語』が私たちの前にひらかれていきます。世の中で起こる個々の出来事は、それぞれどのようなフレームのなかに置かれるかで意味が変わります。場合によっては、その出来事を見るフレームを持ち合わせていなければ、私にとってその出来事は存在しないということになります。そう考えると、私の意識がどのような『世界の物語』をつかまえるかということは、『物語力』を発揮する上で大問題であるはずなのです。
▼東日本大震災からもうすぐ1年が経過します。被災地の窮状はさほど改善されていないにも関わらず、被災そのものを『私の物語』として生きることを余儀なくされている人々以外、『世界の物語』のフレームから被災の事実が少しつつ忘れ去られていることは、日々のテレビニュースを見ても明らかです。そのことに社会的な歯止めをかけるためには、少なくともすべての日本人に日本人としての『物語力』が問われると私は感じています。
浜田寿美男 『私と他者と語りの世界』 ミネルヴァ書房 2009





















